光へ


 サラバである。

 あたしは大きく手を振って、歩き出した。そして、すぐに自動ドアにぶつかりそうになった。回る世界のスピードに合わせて、おっとと少し立ち止まって、振り返ってスマイル。驚くべきことに彼はもうそこにはいなかったが、思ったより涙は出なかった。ちょっとは出たけれど、歩けばすぐに乾く程度の悲しみだと思った。今度こそと自動ドアを通過して、振り返らずに一直線。コンビニでワインでも買おう。早足で歩いてみるけれど、赤信号で全部チャラ。うまくいかないものである。

 音楽でも聞こうとイヤホンを取り出して耳につける。端末の中には洋楽しか入ってなかった。大して好きでもないのに、彼の影響で入れたものだ。勉強しようと思って、お気に入りの曲はほとんど消してしまっている。聞ける曲がなかった。聞きたいと思える曲が無かったし、聞くべき曲も無かった。歌詞のわからない曲になんて、そもそも興味がなかったのだ。ベースの音なんぞ聞き取れたこともない。仕方がないのでラジオを聞くことにした。あたしは免許を持ってもいないのに、交通情報を聞くのが好きだ。渋滞の情報を聞いて、見えないところに人がいるのを想像して楽しくなる。車の中の様子を想像する。まさか、徒歩の女がこんなところで青信号を待ちながら同じラジオを聞いているなんて夢にも思わないだろう。トラックの運転手は色黒で筋肉質。ラッキーストライクを胸ポケットから取り出して火をつける。そう、彼らは赤血球なのだ。パトカーや救急車が白血球。月並みの想像だろうけど、道路は血液に酷似していると思う。青信号に変わった。あたしは歩き出す。少し遅れて、おじいちゃんも歩き出す。あたしたちも血液に例えたいところだけど、血液の知識なんて赤血球と白血球くらいしか知らないのでどうしようもない。あたしの血液はトラックと救急車とパトカーで構成されている。

 なんとなく、結婚するんじゃないかと思っていた。なんとなく、それは運命で、決定済みの未来だと思っていた。約束された出会いだったのではないかと思っていた。まさか違うとは。なかなか衝撃的な事実だった。今でも信じられない。紆余曲折あって結局結婚する、その紆余曲折の紆余の道を今歩いているのではないかとさえ思っている。曲折すれば、彼がそこにいるのではないか。

 しかし信号の先は一直線で、曲がるポイントなど無かった。学校の横の道であり、万里の長城みたいにグラウンド沿いのフェンスがずっと続いている。曲がりさえすれば、彼と出会えるのに。


 あたしは曲がった。フェンスにぶつかる。気にせず進む。血脈を無視して飛び出す血を想像した。きっと今、大慌てで白血球がこちらに向かっているだろう。フェンスに思い切り体を押し付ける。このまま進んで、フェンスの網目の形に肉が細切れになればいい。そうなればいい。

 だけど人間の身体は意外と頑丈なもので、そんなことにはならなかった。血も一滴も出なかった。野球部の少年たちがあたしを見て怖がっている。驚かせてすまん。イヤホンから交通情報が引き続き聞こえる。渋滞は、もう解消されたようだった。ラッキーストライクをもみ消して、色黒の男は走り出しただろう。あたしも行こう。サラバである。


 涙目に太陽がキラキラしていた。