プライヴェート・ペーパーズ

 これから書く備忘録は、ある事実を書き留めておく為のものというよりは、ある事実に対して僕がどのように感じ、それがどのような意味を持つものであったかを記録しておくためのものになると思われる。従って、必ずしもこれから書くことが事実である必要はなく、そもそもきっと読まれてしまうことになるこのテクストに、事実を書いてしまうことは憚られる。またここに、そのような他人に見せるのが躊躇われる事実を書いたとしても、僕が後に読み返したとき、あまり意味を成すものになってはいないことだろう。それでは僕は思い出せない。僕の過ごした「ある時間」の意味を思い出すことが出来ない。だからやはり、これは単なる僕のための個人的な備忘録なのだ。……さて、この程度の誰に対してか分からない言い訳をしたところで、早速捏造した僕の過去から話を書き記していくことにする。この度書き留めておきたい「出来事に対する僕の心のありよう」を語ろうとするためには、全く経験もしていないファルスメモリーから追いかけなければ、常世でクーデターが起きるまで辿り付くことができないと感じるからだ。



 確かそれは、島根へ行く修学旅行の前日だった。当時十四歳だった僕には、生意気なことに恋人がいた。中園美穂というバレー部の主将だった。彼女が貝塚奏をシャープペンシルで刺したという小河先生からの一報を受けて、すでに帰宅し嬉々として準備し始めていた荷物を途中で放り出し、僕は急いで学校に戻ったのだ。小さな学区だったため、走れば三分足らずで到着する。走っているあいだ僕は、情報の真偽あるいは原因の検証などを家に置き忘れたまま、如何に自分の保身を図るかで頭が一杯だった。それなりに優等生だったため、教師に呼び出されるということが殆ど初めてのことだったのだ。まだ何も始まっていないのに、僕の頭はすでに言い訳で満ち満ちていた。

 貝塚奏は内気な女の子で、あまり友達の多いタイプの人間ではなかった。休み時間に、じっと一人で絵を描いているような女の子だ。それも、実際に絵を描いているかどうかは見たことがないので分からない。もしかすると、計算ドリルをずっと解いているだけなのかもしれない。また、そうだとしても特に驚きがない程度に、真面目な女の子だという印象だった。あまり人と関わらないのだから、喧嘩になるようなことも無いと思うのだけれど。僕はふと、自分の彼女よりも奏のことを心配していることに気が付き、かいてもいない汗を右手で拭った。水滴がついた。走ったが、汗をかくほど暑くはないはず――と思って空を見上げると、いつの間にか随分な曇り空だった。雨が降り始めている。學校に到着したから良かったが、帰りは濡れてしまうかもしれないな、と思った。

 体育館の教員準備室の扉を開けると、左手首に包帯を巻いて項垂れている貝塚奏と、どうやら泣いているらしい中園美穂と、所在無さげに立っている小河先生がいた。僕はまず誰にどんな顔を見せればいいのか分からず、開けた扉から一歩も動けずに目だけを泳がせて、普段見ることの無い先生用の時間割を眺めて、「教室に貼ってあるものに比べて随分複雑だな。」なんてことを思った。

「浮谷。」と、小河先生が僕の名前を読んだ。肩で息をするのを我慢したまま小さく、「はい。」と返事をした。

「急に呼び出して悪かったな。」と小河先生はやけに丁寧に僕に近づいてきた。「二人が、浮谷がいないと話さないと言って聞かないんだよ。」と、後ろを振り返る。美穂が僕のことをじっと見つめていることに気が付く。何かを伝えようとしているようだったが、良く分からなかった。「何があったんですか。」と、僕は小河先生に尋ねる。

「それが、二人とも何も言わないんだよ。」

「でも美穂が、中園さんが貝塚さんをって、電話で。」

「違う!」

突然叫んだのは貝塚奏のほうだった。驚いて目をやると、奏は顔をまた伏せた。美穂は変わらず僕を見つめていた。その目から今度は、奏の発した「違う」という言葉に対する同意が汲み取れた。軽く頷いて(実際には身体は動かなかったかもしれない。)先生に目を戻した。

「俺、そんなこと言ったか?」と、小河先生は困った顔で尋ねた。僕は頷く。(これも、身体は動かなかったような気がする。)先生は首を横に振って続けた。

「いや、何があったかは分からないんだよ。だけど、喧嘩だと思ってな。先生が見たときには、腕を抑えた貝塚と、泣いている中園がいてな。それでどうしたんだと聞いても二人とも黙ってばかりで、やっと言った言葉が中園のお前を読んでくれって一言だけだ。貝塚も、お前が来たら話すと頷いたからな。だから先生は、お前に電話したんだよ。貝塚がシャープペンシルで怪我して、中園がお前を呼んでいるから来てほしいって。」

「刺されたって言いましたよ。」

 僕は少しむっとして答える。

 「刺されたなんて言ってない。」先生も言い返す。

「だけど、中園が怪我させたって。」

「それも言ってない。」

「言いましたよ。」

「まず刺されたって言ったっていうのがお前の勘違いなんだから。どっちなんだ? 俺は刺されたって言ったのか? 怪我させたって言ったのか? お前は今両方言ったと主張しているぞ。それはおかしいじゃないか。勘違いだ。思い込みだよ。」

先生はやや語気を強めて言った。

「それとも中園と貝塚という二人の名前で、お前がそんなふうに思い込んでしまうような何かがあるのか? え?」

 僕はここでやっと先生がとても苛立っていたことに気が付いた。僕に嫉妬しているのだ。自分には何も語らず、僕を呼べと言った二人に対して腹が立っているのだ。そしてのこのことやってきた僕にも、同じく腹を立てているのだった。教師として、自分が除け者にされていると感じているのだ。もっと早く気が付くべきだった。

 「いえ。僕も何もわからないので。……混乱していたんだと思います。ええと……。」

 「三人にしてよ。」

 尖がった声を出したのは美穂だった。僕は少し睨む。美穂も、すでに泣き止んだあとの充血した目で僕を睨んできた。今度はとても明確に意思の疎通ができた。「三人になりたいのはわかっている。様子を見てそれを言おうとしていたんだよ。」という僕の主張と、「じれったいから早くして。」という彼女の我儘が目に見えない電波のようなもので交換された。僕は恐る恐る先生を見る。表情は変わっていなかったが、変わっていないのではなく変えることが出来ないのだと感じた。少し気を抜けば、十四歳に対して見せるのに使うための表情筋以外が躍動してしまいそうになるのを、何とか堪えているのが見て取れた。僕は話を逸らしながら、うまく三人になるためにこう言った。

 「この、包帯は?」

 「それは、ここにあった救急箱のものだ。俺が巻いた。」

 先生は顔を強張らせたまま言った。

 「ありがとうございます。病院とか、大丈夫ですかね?」

 「いや、それほど深くは刺さっていないようだから、これで問題ないと思う。」

 「……ありがとうございました。」

 僕はまるでそれで先生の為すべきことは全て為されたかのように、(あるいはそうであるという主張を存分に含んで)深々と礼をした。先生は何か言いたげに三人それぞれに目をやったあと、少し鼻から息を出して眉を上げた。

 「じゃあ、浮谷に任せるわ。」先生は僕に言う。それは優等生である僕に対して、プリントを教室に持って行くようにお願いするときのような、いつもの柔らかい口調だった。

「ここの鍵を渡すから、帰りに閉めて職員室まで持ってきてくれ。五時には帰るんだぞ。」

「わかりました。」

 僕が教員準備室の鍵を受け取ったあと、小河先生は頭を掻きながら去っていった。

 さてと、と僕は二人を一瞥した。最初に言葉を発したのは、奏だった。

 「ごめんなさい。」

 彼女はそう言って、立ち上がった。

 「あたしが悪いの。」と言って、血の付いたシャープペンシルをポケットから取り出した。

 もっと前から降り始めていたはずなのに、今更、雨の音が煩く聞こえた。

 

 ――さて、ここでこの記憶は一旦途切れる。このファルスメモリーから、時間を経過させてみることにする。それでは、十年後としよう。そもそも偽の記憶であるため、それから十年後となると虚妄の度合いが増すことになるかもしれない。しかし僕は強く感じる。このことでしか、僕の記録しようとする「心のありよう」にはやはり辿り付けない。つまり事実から遠ざかれば遠ざかるほど、僕にとっての備忘録としての意味が増すのである。



 貝塚奏には双子の妹がいた。名前は、貝塚舞。中園美穂と同じくバレー部に所属していた。副キャプテンだったように思う。自傷癖のあった姉と違い、落ち着きがあってクラスでも飛び抜けて大人びていた。髪は腰のあたりまで伸びていて、良く手入れされている艶のある綺麗な黒色をしていた。奏は舞と違ってショートカットだったし、挙動も幼かった。とても分かりやすい、区別のしやすい双子だった。中学時代、二人を見間違えるようなことは一度もなかったのだ。だから二十四歳の春、入社祝いだと先輩に連れられて行った待ち合わせ型の風俗で、待合室の階段から降りて行った先の、手を振って待つ黒髪の女性を一目見て驚いたのだ。貝塚舞だった。長い髪は当時と変わりがなかった。少し艶がなく見えたのは、夜だったせいもあるだろう。ただ体つきはとても大人びていた。当然だ。十四歳の頃に感じていた「大人びている」が、如何に幼いものだったかを思った。

「こんばんは。」

 彼女はそう言って、僕の腕をとって絡めた。僕は何も言えなかった。彼女は僕のことを、もう忘れてしまっているようだった。今、「久しぶり。」なんて言ったところで、気味の悪い男になってしまうだけだろう。自意識過剰な常連客だと思われても困る。そんなことを考えて、僕は黙って気難しい顔をすることしかできなかった。何より、初めての風俗でひたすらに緊張していたのである。たった今初めて出会った女性と、(偶然初めてでは無かったにせよ――)腕を絡めてホテルまで歩くのは、自分の中で違和感しかなかった。極めて、不自然な、時間の流れや男女の関係やニュートン力学や森羅万象の全てに「そぐわない」と叱られているようで、大変居心地が悪かった。

 「いやあ、最近は涼しくなりましたね。」

 僕は夜空を見上げながら言った。「適当に天気の話とかしながら楽しくホテルまで歩けばいいんだよ。」という、先輩に貰った何の役にも立たないアドバイスに縋る他なかった。実際、初対面の人とすぐに共有できるものなんて、天気以外何もないのである。

 「そうですねえ。お昼はまだ暑いですけどね。」

 舞はそう言って僕の顔を見上げた。中学生の頃は、身長なんて彼女とそれほど変わらなかったような気がする。自分の顔なんて、見る影もなく老けてしまっているのだろうなと思った。それから特に話すことも無く、ホテルの三〇二号室に入室した。ラブホテルなんて数年ぶりだった。今の彼女と同棲を始めてからは、めっきり行かなくなった。窓のない狭い空間の空気が重苦しい。ソファに座って、煙草に火をつけた。

「レインです。入りました。サンマルニです。はーい。」

 舞が携帯電話に向かって話していた。なるほど、こうやって入室したらあの受付のお兄さんのいるところに電話をするのだな、と思った。――レイン? ああ、レインという名前でこの仕事をしているのか。受付の段取りは全て先輩がしてくれたため、彼女の名前もわかっていなかった。もし僕が写真を見て、彼女が舞だと気づいたとしたら、僕は指をさしただろうか。おそらく、それはしなかっただろう。僕は先輩に任せきりにしたことをやや後悔した。とは言っても、気前良くお金を出してもらっているのだ。いずれにせよ、どうこう言えるような立場でも状況でも無かった。

「それじゃ、今から時間始めますんで。」

 と彼女はタイマーのようなものをセットした。これから七十分間、僕は彼女に性的サービスを受ける。タイマーが動き出したにも関わらず、全く実感が湧かなかった。彼女は慣れた手つきで浴室にいくつかの道具を置き、お湯を溜めるために蛇口をひねった後、ソファの僕の隣に座った。とぷんとぷんという水に耳を澄ます。良く分からない沈黙の時間だった。

 またもや森羅万象に叱られるような不自然な時間の後、「え?」と、僕はとぼけて言う。「どうしたら、いいのかな?」と続けた。

 彼女はきょとんと首を傾げた。僕は先輩の忠告を無視して、全てを話すことにした。

 「ごめんなさい。あの、実は、こういうお店初めてで、先輩に連れてきてもらって、全く、何をどうしていいのやら分からないんですよ。……こういうことを言わずに、慣れた感じで言った方がいいとアドバイスはされていたんですけれど。」

 「そうなんですか。」

 彼女はくすっと笑って言った。

 「全然、好きにしてもらっていいですよ。……でも、難しいですよね。」

 と、僕にしな垂れかかってきた。優しいと思った。

 「ええと、今から七十分間、この時間と空間において、あなたは僕のモノと思って、いいんですかね?」

 とても気持ちの悪い質問だと思う。だけれど、強調して確認せずにはいられなかった。

 「うん。いいよ。」と彼女は言った。僕の内腿に手を置く。許可を噛み砕いて伝えるみたいに、指先は撫でるように動いていた。

 そして僕はキスをした。――が、あまり気分の良いものではなかった。知らない人とキスをしても、性的な興奮を感じることは無かった。単に、スライムを触っているときのような、ただの感触としての刺激があるだけだった。ここで僕は、自分が風俗に向いていないということを悟った。「百八十分コースなら向いているかもしれない。十分にコミュニケーションを取って、人と人として、それは恋でも愛でもないけれど。何らかの意思疎通が成功してからじゃなければ、僕は快楽を感じることが出来ないんだろう。」なんてことを考えた。このまま何も話さないで身体をまさぐられたって、感情の無いロボットに触れられているみたいで、金属の冷たさに鳥肌が立つのが関の山だと思った。そしてそんなことは、あらゆる風俗嬢がお客さんに触られて何も感じないのと同じことじゃないか、と玄人ぶって考えた。

もう今日は、目の前にいるのが貝塚舞であれ、レインであれ、まずは話をしようと思った。

 「レイン、だっけ?」

 「そうだよ。」

 「お風呂ってどのくらいで溜まるの?」

 「ん、すぐに一杯になるよ。」

 「そう。ちょっと、話をしようよ。」

 「いいよー。」

 彼女の返事はとても表面的だった。何も考えず、何も感じずに言葉を発しているのが良く伝わってきた。それを崩したい、と思った。また、それを崩さなければ僕は性的なサービスで確実に満足することが出来ず、それは先輩にも申しわけがないことだった。この時点ですでに、帰り道に先輩に「いやー、最高でした。ありがとうございました。」と嘘をつかなければいけないなんてことまで考えていた。それを避けるには、彼女と意思疎通を図らなければならないのである。

 「どうして、レイン?」と、僕は尋ねた。

 「雨が好きだから。」と、彼女は答える。

 「今いくつ?」

 「ハタチだよー。」

 「最近、どう。忙しい?」

 「全然そうでもないよー。」

 「テレビ好き?」

 「あんまり見ないかなー。」

 「ふだん、何してるの?」

 「えー。仕事。」

 「仕事以外は?」

 「うーん。友達と遊んだり?」

……。僕は単刀直入に聞いた。

「西中学出身だよね? 双子の姉がいる、貝塚舞。」

 彼女は初めて、考え込んだ。考え込む表情はしていなかったが、返事が出来ずに、止まっていた。僕の顔をじっと見つめている。思い出そうとしているのだろうか。あるいは、憶えていて、知らないふりをしようとしているのだろうか。

「……浮谷くん?」

 彼女は表情を変えないまま呟いた。僕は頷く。もう十分だった。僕の臨んだ意思の疎通は取ることが出来た。このあとのキスは、さっきとは全く違うものになる。このあとの触れ合いは、意味のあるものになる。先輩やりましたよ、なんて思わず叫びそうになった。

「お風呂、そろそろ溜まったかも。」

 彼女はそう言って浴室の扉を開けた。お湯の温度を確認して、指でオッケーのサインを作った。それから二人は無言だった。無言で服を脱ぎ、無言で身体を洗い、無言で浴槽に浸かった。そして無言で出て、無言で身体を拭いた。そして無言でベッドに行く。

「舞。」と突然言ってみる。

「レイン。」と窘められた。「レインって呼んで。」彼女は強く言った。


 ――さて、ここでこの記憶も一旦途切れる。ここで、僕の備忘録は終わりになる。ここまででいくつもの記憶の捏造を行ってきた。また、事実の隠蔽もしたし、曲解も誤解もこのテキストには溢れている。そして確実に、「出来事に対する僕の心のありよう」の記録としての精密さは、精度を増していっているのである。最後に、隠蔽した事実の一つと、僕の心の内を記して終わる。



 レインの左手首には、何かで刺したような黒ずんだ跡があった。


 そして僕はこう思った。


 「この子は一体、誰なんだろう。」



 この話は、ここで終わる。





(了)